ローマ8章
8:1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
ここで論じていることは、肉を持つ信者が罪に従うことで罪を犯すようなことはないと言っているのです。「キリスト・イエスにある者」にそれが可能です。これは、肉によって生きる者ではなく、御霊によって歩む者に可能です。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
御霊の原理と罪の原理が存在しますが、キリスト・イエスにある者は、御霊の原理により罪の原理から開放されたのです。
・「律法」→「原理」律法とも、原理とも訳される語ですが、文脈によって判断されます。七章でも使われていて、律法と訳されていました。しかし、その意味は、私たちを支配する教えを指しています。「御霊の律法」は、御霊によって生きることでいのちがもたらされるという教えのことです。単なる教えではなく、その中に生きることが求められる教えです。同様に、「罪と死の律法」は、罪に従って生きることで死に至るという教えです。それは、むしろ原理と言って良いものです。
8:3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
→「なぜならば、肉によって弱くなって、無力となった原理なのであり、神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のために遣わし、肉において罪の処罰の宣告をされたのです。」
「律法」と訳されていますが、聖書の律法のことではなく、七章から論じられている「原理」のことです。
神がしてくださったことは、御子を肉において遣わし、「罪:単数定冠詞付」すなわち内住の罪に処罰を宣告されました。内住の罪は無くならないのですが、無力とされました。キリストと共に死んだことで、内住の罪とは無関係なものとされるからです。
御子を遣わされたのは、罪のためです。これは、罪の赦しのためではなく、信者が罪に支配されないために遣わされたのです。「罪深い肉と同じような」は、「罪の肉と同じような」という意味です。肉は、罪に支配されているのです。しかし、御子は、肉を持たれましたが、肉が罪に支配されることはありませんでした。罪を処罰されたというのは、肉のうちの罪が無力であることを身をもって示し、罪を処罰されたのです。これは、御子を十字架につけて、罪を処罰したという意味ではありません。これは、肉体を持っていても罪の支配を受けることがないことを示して、罪が無力であることを示したのです。すなわち、聖霊によって歩む者は、罪に対しては勝利者であり、律法の要求を全うできることを示したのです。これにより、罪に敗北を突きつけることになり、処罰を宣告したことになるのです。肉においてはとは、実際に弱い肉体を持つ中で、肉の支配を受けない歩みを実現することで、肉に対する勝利を証明できるのです。イエス様に続く信者も内住の罪に支配されない歩みが可能なのです。内住の罪は無力です。
ちなみに、これは、私たちの犯した罪を負って身代わりに処罰を受けたことを意味していません。
8:4 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。
神の求めるところである律法の要求は、肉に従って歩むことではなく、御霊に従って歩むことで満たされます。
肉と御霊が対比されていて、肉に従うのではなく、御霊に従う道があることが示されます。
御子の肉において内住の罪を処罰したことは、私たちの肉とは直接関係しませんが、キリストと共に死んだことは、キリストの肉が処罰されたように、当然私たちの肉も処罰されたものと認めるのです。
・「律法」→聖書の律法
ローマ
6:5 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
私たちがキリストの死と同じようになることは、内住の罪に対して死ぬことです。キリストが死なれたのは、ただ一度、内住の罪に対して死なれたのです。それと同じです。
そして、「キリストと一つになっている」ことは、キリストにあって、キリストとともに生きることです。それは、ぶどうの枝が、ぶどうの木に留まっているなら実を結ぶと言われたことと同じです。キリストの愛にとどまることであり、それは、具体的には、キリストの言葉を守ることです。
そのように歩むことは、キリストの復活と同じ状態になることです。
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8:5 肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
肉に従う者は、肉に属することを考えるのです。肉を満たすことを考えます。欲を満たすことを考えるのです。神の御心を行うことを考えません。次節では、肉の求めるものの行き着くところは死であることが示されています。
御霊に従う人は、御霊に属することを考えます。御霊に従うことでもたらされるものは、いのちと完全さです。
8:6 肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。
肉の思いは、死です。死を求めるのではなく、求めるものは、死に至る事柄です。
御霊の思いは、いのちと「平安→完全さ」です。命に至る事柄であり、完全さに至る事柄です。
いのちは、その人自身の歩みの中でキリストと一つであるという経験を通して、また、永遠の報いを受けるということにおいていのちです。
また、完全さが与えられます。神の御心を完全に行うことができる完全さです。これほど尊いことはあるでしょうか。
なお、「平安」であるとすると、得られる結果としてはさほど価値がありません。平安であることは幸いです。それは、むしろ信仰によって得られます。完全さは、神の計画に沿ったことであり、今もイエス・キリストを通してなし続けられている御業です。
8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。
肉の思いは、神に敵対します。それで死に至るのです。それは、神の律法に従うことができません。
神の律法と記されていて、罪の律法と対比されています。神の御心に適うことが求められています。
8:8 肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。
肉のうちにある者は、神を喜ばすことができません。神の御心に適うことを行うことができないからです。
8:9 しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
神の御霊がその人の内に住んでおられるならば、その人は、肉の内にいません。肉に従って生きることはないということです。そうではなく、御霊のうちにいるのであり、御霊の支配を受けています。
これは、私たち自身の中で、現実のことです。御霊の内に生きることができるのです。
信じた全ての者が御霊を持っています。もし、御霊を持っていないならば、キリストのものではありません。御霊を持っているのですから、御霊のうちにいるのです。その人は、御霊によって生きるべき者なのです。
8:10 キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。
→「体は、罪のゆえに死であるが、御霊は、義のゆえにいのちです。」これは、対比になっています。体が死んでいるという状態を指しているのではなく、体は、罪のゆえに死に至ることを言っています。体とは、次節からも分かるように、肉に従う体のことです。体自体が死んでいるということを言っているのではありません。肉に従うときに死に至るのです。御霊に従うならば、義の実を結び命に至るのです。
キリストが私たちの内に住んでいる時、二つの状態が存在します。一つは、体が肉に従って罪を犯す状態。その状態は、死です。もう一つは、御霊によって義の行いをするときで、それは、いのちです。そのことは、十三節に示されています。
8:11 イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。
神が御霊によって、肉に従って死に至るような歩みではなく、神の前に義の実を結び、いのちによって歩むことができるようにしてくださいます。
神については、キリストを死者の中からよみがえらせた方と記し、キリストが罪に対して死に、神の前に生きた者としてよみがえらせたように、私たちもその御力によって罪に対して死に、神に対して生きた者として歩むことができるようにしてくださるのです。
・「死ぬべき体」→「死ぬはずの体」肉に従って罪を犯して歩むことで死に至るような体。これは、罪を犯したので刑罰が定まっているという意味ではない。
・「生かしてくださいます。」→肉に従って生きるのではなく、神の律法を行うことができるようにしてくださること。
8:12 ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
→「肉によって生きるという肉に対する債務はありません。」すなわち、肉に従って生きるという義務を肉に負ってはいません。
なお、本版の訳では、肉に対する義務以外の義務があるかのように訳されているが、そのような義務については記されていません。また、後半の訳は、肉に対する義務が存在しているかのように受け取ることができます。誤解を招く訳です。
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。
肉によって生きるならば、死ぬことになります。神の御前に義の実を結ばないことを表しています。
これは、肉体の死でもなく、地獄の滅びに入ることでもありません。御霊を持っている人について論じているからです。
御霊によって義のゆえにいのちであることは、体の行いを殺すことによります。
死といのちという二つの状態が存在しうるのですが、いのちは、体の行いを殺すことで実現します。
肉も内住の罪も殺すことはできません。殺すことができるのは、体の行いです。この体は、肉体のことではありません。肉に従う体のことです。体の行いを殺すとは、肉に従った行動を止めることです。
8:14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
神の御霊に導かれる人とは、肉にはよらず、神の御霊に従って生きる人のことです。イエス様を信じたすべての人を指しているわけではありません。しかし、イエス様を信じた者は、本来御霊によって導かれて歩むべき者であるのです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
奴隷の霊が存在するわけではなく、御霊がもたらすものは、奴隷の状態ではないことが強調されています。もちろん、悪魔や悪霊の働きはあります。しかし、ここではなにかそのような霊を受けることとして論じているのではなく、先に罪の奴隷の状態について論じたように、そのような状態に戻すような霊を受けたのではないことを言っています。聖霊は、そのような状態に至らしめることはないのです。
御霊によって子とされるのです。これは、例えば人の制度のように戸籍上子となることだけを意味していません。これは、相続人となることが意図されていて、御国の相続人となることです。御国を相続することは、信じた全ての信者に与えられる立場を意味していません。御霊によって歩んだことに対する報いを受け継ぐことが、御国の相続であるからです。肉に従って歩んだことに対して、御国で何か相続すべきものが与えられることはありません。
私たちは、御霊によって神様を親しく父と呼ぶことができます。
8:16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
私たちは、御霊の証しを直接聞くことはできません。啓示を受けることもないのです、では、どのようにして知るのでしょうか。私たちの霊とともに証ししてくださるとあります。霊は、神の言葉を信じて受け入れる座です。その信じて受け入れた言葉の中を歩もうとする時、それができるのです。今まで、罪が働いてできなかったことができるのです。肉の努力でできないことができるのです。それは、御霊の働き以外にありません。そのようにして、私たちが神の御心にかなう道を歩むことができることは、御国において報いを受けることを確かなこととしています。御国の相続を受けるのです。それは、私たちが子であることを確かなこととすることです。それが御霊の証しです。
8:17 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。
その説明がここに記されていて、苦難の結果は、栄光にあずかることであり、御国で相続を受けることであるのです。ですから、私たちは、神の相続人なのです。相続人であることが子であることを意味しています。ですから、単なる戸籍上の立場ではなく、御霊によって歩んでいるので相続人であり、子なのです。
8:18 今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。
訳出されていませんが、接続詞がついています。理由や説明を表す語で、英語の「for」が該当します。ここでは、「そういうわけで」。
そういうわけで、今の時の苦難は、その栄光に比べれば、当然、取るになりないものと考えます。
・「考える」→みなす、論理的結論と判断する。
8:19 被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。
訳出されていませんが、接続詞がついています。理由や説明を表す語で、英語の「for」が該当します。ここでは、理由。
なぜならば、被造物は、神の子の現れを待ち望んでいるからです。このことを理由としてあげているのは、神の子どもたちの現れがいかに偉大であるかを示すためです。その栄光が偉大であれば、今の苦難は軽いことになります。
神の子が栄光に与ることは、全ての被造物の注目の的なのです。その偉大さを覚える時、決してこれを軽く考えてはならないことを覚えさせます。苦難があるからといって避けてはならないのです。まして、今日、平穏な日々が与えられているとすれば、なおさら、御霊に満たされていのちに歩まないでしょうか。
被造物は、擬人化されています。彼らは、自分の意志を持っています。二十三節の記述から、彼らは、信者のことではありません。信者以外の人間も対象とはなりません。なぜならば、彼らは、贖われることはないからです。
8:20 被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。
訳出されていませんが、接続詞がついています。理由や説明を表す語で、英語の「for」が該当します。ここでは、理由。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
被造物は、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。「神の子どもたちの栄光の自由」とは、神の子たちが御霊によって罪から開放された自由の中に生きていたのですが、肉の働きのために完全な状態には到達していないものについて、体が贖われて完全に罪から開放された自由のことです。それは、罪による滅びから開放された自由とも言えます。
それで、被造物に関しても、滅びの束縛からの開放として取り上げられています。この被造物に、罪を犯して滅びることが定められている御使いと救われていない人間は含められません。彼らは、贖われることがありません。
8:22 私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。
訳出されていませんが、接続詞がついています。理由や説明を表す語で、英語の「for」が該当します。ここでは、そういうわけで。
そういうわけで、被造物の全てがうめき苦しんでいるのであり、神の子の栄光の現れは、大いに期待するところであるのです。
8:23 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。
子にしていただくことが、その時に実現することとして示されています。子にしていただくことは、体の贖いとして示されています。子としていただくことは、体が完全に贖われ、相続者にふさわしい状態となることです。朽ちない者だけが御国を相続できます。御霊は、御国を相続することの保証であられます。
御霊を頂いていることは、贖われた時の完全さをすでに肉体にある時に実現してくださることです。肉には従わず御霊に従う時に、そのことは実現します。
コリント第一
15:42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
15:43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
15:45 こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。
15:46 最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。
15:47 第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。
15:48 土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。
15:49 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。
15:50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
15:54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に呑み込まれた。」
15:55 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
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エペソ
1:13 このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。
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8:24 私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。
→「それで、この望みが私たちを救いました。」すなわち、危険な状態から安全な状態に助け出したのです。救うという動詞の主語は、「望み」です。
これは、望みがあるので忍耐できたという経験を表しています。当然、地獄の滅びから救われるといういわゆる救いの立場を得たということではありません。
8:25 私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。
望みは、目に見えないものです。ですから、忍耐して待ち望むのです。
8:26 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
御霊も執りなしによって助けてくださいます。その方法は、言葉にならないうめきです。人自身が言葉にできないことを御霊が言葉にはよらないで取りなされます。深いうめきであって、御霊が信者のことをよく知り、それを深く受け止めて、うめかれるのです。
・「同じように御霊も」→「望み」が救ったことと同じように、御霊も助けること。
・「うめく」→大きな圧力を引き起こす環境によってもたらされるうめきを発すること。
・「とりなす」→嘆願すること。信者の罪や弱さについてとりなすのではない。ここに挙げられている弱さは、どう祈ったらよいか分からない弱さです。祈れない私たちに代わり御霊が嘆願してくださるのです。
8:27 人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
言葉にならないうめきで御霊はとりなすのですが、その御霊の思いを、心を探る方はご存じなのです。本来言葉がなければ理解できないのですが、御霊の思いを神はご存じです。御霊は、聖徒を通して神の御心を実現しようとする目的に従って執りなしておられるからです。
・「人間の心を探る方」→「心を探る方」「人間の」は、補足だが、ここでは、神が御霊の心を探られることを言っているのであり、人間の心とすることは不適切。人間の心を探ることと、御霊の思いを知っていることには関係性がない。ここでは、全ての心を探る方であり、ここでは御霊のお思いを探られるのです。この「心」には、定冠詞がついていて、複数形です。心全体を指しています。すなわち、全ての心を探る方として示されています。
・「神のみこころにしたがって」→神の内にあって。すなわち、神のために。神の御心の実現のために。あるいは、その栄光のために。
8:28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
益となるいくつかのことを挙げることができます。
一、御霊の内住により、肉にはよらないで御心を行うことができる者とされていること。
二、御霊の内住は、子であり、相続人であることを保証していること。
三、被造物も待ち望む偉大な栄光に与るという望みがあること。
四、御霊が常にとりなしてくださること。
これらのことは、ともに働いて益となるのです。このような立場に召されたのは、神のご計画によることです。ですから、神は、これ以上ないという最善のものをもって働かれるのです。
8:29 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。
8:30 神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。
その神の御計画とは、御子のかたちと同じ姿にすることです。これは、予め定めらたことであり、ご計画なのです。
その目的は、御子が長子となるためです。それは、同じ道を通ってきた者の中で、御子が最も誉れを受けるためです。
さらに詳細に、記されています。予め定めた人を召されました。召した人を義と認めました。義と認めたことは、信じる者を義としただけでなく、御霊による歩みを義とされたことです。さらに、栄光を与えます。これは、義の実を結んだことに対して報いを与えることです。
8:31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
「これらのこと」は、神が私たちを相続人とし、御子のかたちと同じ姿に予め定められたこと、そして、私たちに栄光を与えようとしておられることなどです。そのような神の業から導かれる結論として、信者がいかに恵まれているかを明らかにし、励ましています。肉にはよらず、御霊によって歩むためです。
初めに、敵対者はいないことが取り上げられています。この敵対者は、悪魔です。信者が御霊によって歩むことに対して、敵対し、肉に従わせることで、神の業を破壊しようとするのです。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
そして、神が与える栄光の偉大さが示されています。それは、与えられるものの偉大さを示すことで、御霊によって生きることを強く動機づけるためです。 神は、全てのものを恵んでくださるのです。御子と同じ栄光に与らせることにまさることがあるでしょうか。
御子を惜しまずにお与えになったのですから、それを与えてくださるのです。
8:33 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
そして、罪を犯した場合について触れ、それでも訴えられることはないことを示しました。それは、神が義と認めたからです。信者は、神によって選ばれた者であるのです。
8:34 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
さらに、罪ありとすることができない理由が示されていて、御子の執り成しがあるからです。
その方は、罪のために死なれたのです。そして、よみがえられて永久にその業をすることができます。
神の右の座に着き、執り成されます。右の座に着いていることは、その方の栄光を表しますが、その高い評価を受けられる方の執り成しの力強さを表しています。その方が、信者のためにそれをするのです。
キリストの執り成しは、私たちを罪ありとすることに対してのとりなしです。ですから、罪ありとすることはできません。
ちなみに、ヨハネ十七章の祈りは、大祭司としての執り成しの祈りと言われますが、該当しません。イエス様が地上におられた時、たしかに大祭司として来られましたが、それは、罪の贖いのためです。ヘブル九章から、贖いの日に亜麻布の服をまとって至聖所に血を持って行き贖いをなすことに該当します。とりなしの働きは、天においての働きであり、栄光の装束に着替えてからの役割です。さらに、執り成しは、罪の執り成しなのです。あるいは、弱さによって躓くことに対する執り成しなのです。ヨハネ十七章には、そのような要素はありません。そこでは、永遠の命の内に歩むための祈りが捧げられているのです。それは、弟子たちが罪や弱さとはかけ離れた非常に高度な歩みの中に生きるための祈りになっています。
8:35 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」
8:37 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
様々な困難の中で、私たちは、圧倒的な勝利者になります。その困難によって、肉体の命を落とすことがあっても、勝利者なのです。ここでは、相続者として報いを受けることが勝利であるからです。信仰者の地上の生活が守られるということではありません。
困難があったとしても、それはキリストの愛によることです。苦しみに会わせないことが愛なのではなく、愛するから永遠の栄光のために苦しみを与えられるのです。
キリストの私たちに対する愛は、変わらないのです。その愛から引き離すのものはありません。
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
8:39 高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
どのようなものであってもキリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことができません。キリストが私たちを愛していることは、厳然として変わりないのです。
これは、神の愛なのです。具体的には、その愛は、キリストによって現されるのです。